ひねくれ女のぼっち日記

「勉強になりました」が口癖の人の日記

2021/6/26(土) 18:00

Jun. 26th, 2021


梅雨の晴れ間、6月最後の土曜
定期更新です

珍しく早速本題へっ


【後輩の存在】
【ファンという名の】
【スケジュールの考え方】


3つのトピックでお送りします





【後輩の存在】
今日は大学時代の後輩と遊びに行きます
久しぶりに会うから楽しみ
その内容は明日書きます



さて、後輩の存在って大きいと思いませんか?

《後輩 - こうはい》
学問・年齢・地位などが自分より下の人。また、同じ学校・勤務先などで、あとからはいった人。
- Oxford Languagesの定義


というわけですが、
今まで人生で後輩が居たことないって人の方が少ないと思ってて、
何らかの視点で見れば必ず「後輩」って存在するんですよね


学校でも、2年生に進級すれば
1年生の存在は自動的に後輩に当たるわけです


会社でも同様です
入社2年目を迎えれば、入社1年目の存在は
後輩に当たります


新卒入社の場合は特にそうです


では中途採用ではどうでしょうか
新卒入社2年目の私にとって、中途採用派遣さん1年目の従業員はこの「会社」では後輩に当たりますが、人生としては大先輩のことが多いです。もちろん、仕事としても。


慣れるまでは大変ですよね、このロジック



さて、そんな私も、新卒で入った会社で、中途採用派遣さんが多い中2年目を迎え、社内のルールや会社生活にだいぶ慣れてきました。



社会人2年目も2ヶ月を迎えた頃、気づきました。
「あ、"後輩"ほしい」


そう、周りにいる全員が先輩であり、年下がいないという環境に気づきました。


もちろん、他の支店や支社には新卒入社1年目の社員がいます。


しかしあいにく、自分の拠点、部署には新卒の採用はありませんでした。


他の支店の、顔も、名前すらもあやふやな後輩の存在しかないのです。



たしかに会社規模の視点で見れば後輩がいるのです。顔も名前もあやふやな後輩が。





そこで私は唐突に不安になってしまいました。


私はここで誰かの指示を受けるだけで本当に成長できるのでしょうか?


幸い、先輩や上司はとても良い人たちばかりです。


言ってしまえば甘え放題な環境です。



学生時代はそれなりに先輩にも後輩にも恵まれた環境でした。


自分と同じような考え方をする先輩、後輩。一方で自分と全く価値観の異なる考え方をする先輩、後輩。


その両方と関わることで、チームのあり方や、人との接し方を学び、なにより、教えることが自分のスキルアップに大きな影響を与えました。


先輩から教わっているときも、十分に学んでいるつもりでしたが、
やっぱり人間アウトプットが大切。


頭ではわかっていても、環境に強いられないとアウトプットって難しい。


後輩の存在はとても大きいものでした。



その事実に、今になって気づきました。


アウトプットが大切なのは、仕事においても同じ。



1年を通して、ある程度の業務をこなしたとは言え、逐一教わりながらです。


できる?と聞かれれば、できるかどうか不安な段階です。
やってみないと、出来るかどうかすらわかりません。
やってみないと、何が今できないのか、何が分かってないのかも分かりません。



「後輩」と仕事をする中で、新しい気づきもあると思います。



そんな機会が欲しいなと思った2年目の6月でした。





でも、今の私に後輩ができても、こんな先輩には不安しかないと思うから、今はしっかり頑張って、もっと格好良い姿で、いつか後輩を迎えられるよう今は頑張ります。








【ファンという名の】


YouTuberの緊急事態宣言下の飲み会について報道がありました


この件についてはとやかく言うつもりはありません



私が気になったのは、このYouTuber方のコメント欄やリプ欄です


有名な人であればあるほど、
"好きだったのに失望しました"
"そんな人だとは思いませんでした"
"もう観ません、さよなら"
などのコメントが目立ったように思います


一番理解に苦しんだのは
"きちんと謝罪すべきです"
というコメント



私は性格がひねくれているので、
「それわざわざ本人に言う必要ある?」
「なんでお前が謝罪求めてんの??」
などと思ってしまうわけです


たしかに影響力ある人が、芳しくない行いをすると、我々一般人より目立ってしまうのは明白です


また、その行動が悪いとわかっていながら、「○○は悪くない!」と擁護するのはファンではなく、信者だと思いますが、言わんでいいコメントをするのもまた、ファンではなく、ファンの顔をしたアンチだと思うのです。



「もう見ません」などのコメント、わざわざ本人に伝える必要があるのでしょうか?


Twitterで個人的につぶやく分には構わないと思います


「○○好きだったのにな、あんなことするとか。失望した。もう観ない」など好きに呟いて構いません。


それで本人が傷つくようなら、それはエゴサ(及びパブサ)をして情報を掴みにいった側の過失です(だからといって何を言っていい訳ではありません。名誉毀損等、法を犯すのは辞めましょう)



「もう見ません、失望しました」
勝手に失望してろ、黙ってチャンネル登録解除しとけやって思ってしまいます



ましてや「きちんと謝罪すべきです」


なんで???おまえに????


百歩譲って「きちんと反省すべきです」ならわかります


たしかに良くない行いをしてしまったのなら、反省、同じ過ちを繰り返さないことは必要です。


(まぁ他人に強要された「反省」に果たして意味があるのかって話ですが。それは置いといて。)



たとえば交通事故を起こした場合、被害者や、事故の規模によってはその遺族への謝罪は必要だと思います


加害者・被害者の存在、立場が明確だからです


それは、殺害、放火、窃盗、などなど、法律に背いた行為なら同様だと思います





では飲み会はどうでしょうか


たしかに感染症の流行等、飲み会が推奨されるべき状況ではありません


しかし、視聴者に謝罪をする必要があるでしょうか


身近な人間が「飲み会行かないでよ〜、コロナ怖いから」と言って咎めるなら分かります。うつされる可能性もあるので。



でも、彼らは職業柄人目を気にして生きているわけだし、視聴者の8割以上の人間と接点なんてないでしょう?


謝る必要ありますか?迷惑かけましたか?






話は逸れますが、契約の世界では、損害賠償について、「直接損害に限り」などの文言があることで間接的に発生した損害については責任を負わない(又は問わない)場合が多いです。


なぜなら間接損害の賠償まで保証してしまうと、「その損失によって生まれるはずだった利益」など、目に見えない部分まで賠償することになり、企業には大きな損害になるからです。





では、話を戻しますが、YouTuberやその他芸能人、所謂著名人とよばれる方々は、どうでしょうか。


彼らは、不祥事に対して、お金を払って責任をとっているわけではありませんが、なぜ全く関係の無い人にまで謝罪をしているのでしょうか?



不倫の報道がその最たる例です



不倫をしたとなれば、たしかに不法行為ですし、少なくとも加害者と被害者の構図は生まれます


ですが我々一般人は?


彼らの夫婦生活とはなんら関係ないんです、ないはずなんです

それを大々的に取り上げて、謝罪会見までさせて。


一時的には話題に上がりますし、した側もされた側も今後そういう目で見られることにはなると思います



しかし直接関係がないにも関わらず、文春だなんだの報道、 に対し、リプライや引用リツイートで攻撃をする


「不倫をするやつは地獄に落ちろ」???

あなたは不幸にもパートナーに不倫、浮気をされた過去があるのかもしれませんが、

それはなんら当該芸能人とは関係ないことです


正直、不倫相手がただの一般人だったときでも、気持ち程度の顔のモザイクだけ、知っている人が見ればすぐに個人が特定できるような撮り方や、ストーカーまがいの尾行の仕方も好きではありません。

それは報道の自由、そして我々視聴者の知る権利と言われてしまえばそれまでですが。





彼らはいったい誰に向けて謝罪しているのでしょうか


我々ではなく、パートナー(必要であればその家族)に謝罪をすれば十分ではないでしょうか

厳しい言い方になってしまいますが、「謝れば済む」を体現してしまっていませんか?

世間の風潮によって。


職業柄、人気商売だからってのは否めないんですけどね

クリーンなイメージでやってきたのなら尚更。

結局、ファン(笑)を不快な気持ちにさせてごめんなさいってことなんでしょうね


人間、自分がファンを辞めるからって、簡単に手のひら返して攻撃できるようになるんですね、顔が見えないだけで。



「こいつは悪いことをしたのだから何を言われても仕方がない」という前提でコメントしている人もそこそこ多い気がするんです。(その人に対して否定的か肯定的か問わず)

その姿こそ加害者精神そのものでは?と思ってます。

当たり前だけど、
その人が何をしようがそれが是正される必要はあっても、
何を言っていい理由にはならないんだから。


誰にも、「暴言を吐く権利」なんてないはずです



とある漫画に、このような言葉が出てきます。


人が最も残虐になるときは「悪に染まった」ときではない!
真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときに人は加虐のブレーキが壊れるのだ!


SNSYouTubeのコメント欄を通して、所謂アンチコメントを書いている人達は、まさにこれに該当するのかもしれません

感染症の影響で推奨されていない飲み会、不倫、轢き逃げ。

これらは、社会において悪とされています。

だからその報道を知った人、視聴者はそれを悪だと思い、それを叩くことで「自分は正しい行いをしている」とすら考えているのではないでしょうか。

「自分は正しい」という免罪符のもとに。
正義という名の棍棒で悪とみなした者の頭を打ちのめす快楽に溺れる。




自分はそうならないように気をつけないとな、と他者の投稿を反面教師にする日々です。






【スケジュールの考え方】


スケジュールの考え方についてです


友達と遊ぶとき、誰かとご飯に行くとき。


日程を調整して、お互いの都合を擦り合わせて計画すると思います



「明日遊ぼー!」
「〇日の夕方空いてる?飲みに行かない?」


こんな風に声をかけたりして、了承すれば約束は成立です


少なくともどちらかはその日を相手のために空けているはずです





ではどこからが約束なのでしょう



A「〇日空いてる?ランチ行かない?」
B「うん、空いてるよ!行こう。」
A「場所どうする?」
B「×××(駅名)はどう?」



だいぶスムーズではありますが、よくあるやりとりだと思います



私は、Bの第一声で、都合がつくことを示し、さらに行くことに賛同した時点で約束は成立だと考えます



そしてこれが一般的だとすら思っていました



しかしつい最近、そうではないのかも、と考えることが起こりました



言ってしまえば、Aは友達、Bは私です。


このやり取りを終えた後、Aとはぱったり連絡がつかなくなり、結局前日まで連絡が無いまま。


この時点で場所も時間も未定です。


これまでAに気分屋のイメージを抱いていなかったので、体調でも崩したのではと心配になりました


せめて当日の朝にはなにか連絡が来るかな〜と思っていたのですが音沙汰なし。



追い討ちをかけるような連絡の取り方はあまり得意ではない(される分には構わない)のですが、当日の昼前にそれとなく「今日だったよねー?」と確認の連絡を入れました


一応、「体調悪かったり都合悪かったらまた今度にしよー!」と付け加えて。


時間も場所も結局決まっていなかったため、『出向いた矢先にドタキャンされた』とはならずに済みました。





返信が来たのは夕方でした


特に悪びれている様子もなければ、行けなくなった理由すらもわかりませんでした


言いたくない理由があるのかもしれません。



すくなくとも私はこの日、時間を奪われた、と考えてしまうのです






少し前の私ならもっと憤慨していたかもしれません


しかし私は考えました



さて、前置きは長くなりましたがここからが本題です





どこからが約束でしょう


日付が決まったら?
場所が決まったら?
日付と時間の両方が決まったら?
日付、時間、場所の全部が決まったら?



もしかしたらここの価値観に違いがあったのかもしれません



一方は、日付だけが決まった時点で約束が成立していると思い、その日の最優先事項となる


しかし一方で、日付と時間と場所の全てが決まっていないと約束は成立していないと考える場合、その後詳細を決めなければ、当日連絡をしなくても、行かなくても、ドタキャンにはならないのです。約束すらしていないのですから。





はたしてAと私の間にこの価値観の違いがあったかは定かではありませんが、ここの擦り合わせは大切だと思います



友達でも、恋人でも。



一方的に相手を責める前に、考えうる可能性を考慮した上で、それでも理解できない、賛同できない、と思うなら徹底的に戦えばいいのです



まずは相手の立場になって、一呼吸置いてから考えます



もしかしたら今度友達になる人は、日付と時間と場所、やることの全部が決まってからが約束の成立だと考える人かもしれないしね














以上3本立てでした


6月も、日々の中でいろんな感情になりました


新たな気づきや自分の価値観を大切にできるように。


自分の価値観を大切にした上で、相手の価値観を理解して、大切にできるように



まだまだ分からないことばっかりです





7月はどんな感情が待っているんだろう


まだ明けない梅雨を
じめっとした空気を
増え続ける、見えないものと戦う数字に辟易とする日々を



大切な人と乗り越えていけたらと思います



7月も健やかでいようね




#勉強になりました